文学史から見た反自然主義についてはこちらをご覧ください。 第2」の「179 「鴎外」の雅号」において転載しています。 デジタル大辞泉 - 余裕派の用語解説 - 初期の夏目漱石を中心とする写生文系統の作家、高浜虚子(たかはまきょし)・鈴木三重吉らの一派。現実に対して一定の距離を置く心の余裕を唱えた。写生派。→彽徊(て … 志賀直哉: AB型 反自然主義文学の舞台となった慶應大学の「三田文学」については それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。 時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十 もはや小倉で森少将閣下となっていた時代のご本人にとっては、いまさら「鴎外漁史とは誰ぞ」なのでしょう。そのレトリック多用の文調からして真面目に裏打ちされており、まあむしろ可愛いもんなのですが…。, #6です。 たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい 反自然主義文学には、理想と現実の距離に それと、侍の時代を生きた人たちの中には、血判状を書いた人もあった (赤穂浪士など)。それが残っている人は分析できる。 活でもいろいろと面倒をみてもらっていた作家です。太宰は候補になっていた第 ……その確信は……家庭である、家庭のエゴイズムである」などと言ってますが、 3.火災に遭ったせいもあり千住の父の医院に引越しした鴎外と、岩代から当時は千住に移住していた佐藤父子との交流も通り一遍のそれではなかったこと。 そのような事が分かる本などは有るのでしょうか? 西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。 三四郎(さんしろう):23歳の主人公。熊本から上京して東大生になり、美禰子に恋心を抱くようになる。 広田(ひろた):野々宮の師匠で、高校の英語の先生。 野々宮(ののみや):光の研究にいそしむ30歳の学者。三四郎と同じ熊本出身。 美禰子(みねこ):三四郎が憧れる女性。亡くなった兄の友人の野々宮と交際をしている。 与次郎(よじろう):三四郎の大学の友人。広田の家に下宿している。 なので日本史で明治時代~大正時代をみるとわかりやすいですよ。  にもかかわらず、『破戒』は発表当初から「自然主義小説」として宣伝されてしまった。おまけに、小説としての完成度が高かったことから絶賛を浴びた。大成功を収めた。…これが、皮肉なことに、日本における自然主義文学の方向を決定してしまったのです。社会的視点を欠いた自己告白的小説が「自然主義だ」ということになってしまった。藤村自身が、「いやー、実はねー、自然主義って、ほんとはこうなんだよ」と、ちゃんとフォローするような仕事をしてくれていればよかったかもしれませんが…やってないんです、結局。 志賀直哉: AB型  ところが、作品全体として見ると、明らかに焦点は主人公・瀬川丑松の内面的苦悩に置かれています。被差別部落問題は、ただ単に「背景」でしかなく、作品を通してこの問題の核心を追究しようという姿勢は、もうぜーんぜん見られない。つまり、本来の意味での自然主義文学としては、要件を十分に満たす作品ではなかったのです。  まず、写実主義の方は、おっしゃるとおり、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、二葉亭四迷の『浮雲』を本格的な出発点とする流れです。言文一致が特徴ですね。文字通り、現実を描写するという意味で写実的でした。 太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた  紅葉や露伴が擬古典主義と呼ばれるのは、わざわざ西鶴などの文体を真似して小説を書こうとした活動を指すもので、ただ文語で書いただけの鴎外は擬古典主義とは呼ばれません。...続きを読む, 自然主義文学と反自然主義文学の違いを中学三年生(理解力小学生の高学年並み)でも分かるように教えてください!, 現実の人間世界は汚いものだ。 http://s-houkin.hp.infoseek.co.jp/kokubun/simazaki01.htm http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874/63 日本を代表する文豪である森鴎外。そんな森鴎外のお墓は三鷹と津和野にあると言います。その2箇所のお墓の場所をご紹介すると共に、お墓が2つある謎についても解明します。さらに森鴎外と太宰治の意外な関係性についても解説しますので、ぜひ最後までご覧ください! 森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に夏目漱石は森鴎外の事をどう思っていたのでしょうか?2人の間には交流はあったのでしょうか? ※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。 (夏目漱石より武者小路実篤宛書簡 明治43年3月30日) ちなみに、武者小路実篤の『或る男』によれば、森鴎外に送った「白樺」創刊号は、古本屋に出ているのを、仲間の誰かが見つけて、それでよけいに鴎外を嫌いになった、というエピソードもある。 ★ お世話になります。森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に 前回は、修善寺の大患以降の漱石を通して反自然主義文学の潮流を見てきました。今回は、そんな漱石とともに独自の世界観を築き上げた巨頭、森鴎外を見ていきたいと思います。 その自然主義の特徴には、人間(または人間社会)の卑小性、無理想、無解決、技巧的には客観描写(観察・分析・実験)があげられます。  こういういきさつで、要するに、日本では写実主義も自然主義も、中身に大したちがいはないんです。強いて言えば、自然主義の方は、「浪漫主義混じり」のせいで内面描写に突っ走ることになり、自己告白が露悪的な方向に傾きがちになった点に、写実主義との違いがあるでしょう。写実主義の方にも露悪的なものはありましたが、どちらかというと、「現実って、こんなに厳しくて悲惨なんだよ」という、現実世間の描写でしたから。 理想を追い求めるのが大切だ、というのが >鴎外が、春の嵐の様子を描いた杜甫の詩句から取られたものだというのは、初めて知りました。お弟子の斉藤勝寿氏と、どんなやり取りののちに、この詩句を採用したのか、興味の湧くところです。 った高尚趣味(と太宰は思っている)若い作家達の彼へのとりまき、へつらい、 5.唐詩選中の杜甫の五言律詩が出所と思われること。 森鴎外がイラスト付きでわかる! 明治・大正期の小説家。軍医・森林太郎としての顔もある。 森鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日 – 大正11年7月9日)は、明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家、陸軍軍医,官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。 参考文献といえるかどうか判りませんが、「ピカレスク」(猪瀬直樹・小学館) 日本文学史. >ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。 夏目漱石を中心としたグループが「余裕派」、森鴎外らが「高踏派」。 代表的な作品:夏目漱石『草枕』『三四郎』『こころ』、高浜虚子『風流懺法』、森鴎外『雁』『阿部一族』『高瀬舟』、堀口大學『月光とピエロ』など 大正時代の文学思潮 分かりやすく書かれている本等があったら、書籍名を教えて下さい。, 高田瑞穂「反自然主義文学」(明治書院)というのもありますが、 非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。, 明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。  本当に、疑問に思われても無理もないことだと思います。というのは、明治の文学史を見てみると、ひっじょーに奇妙なことが起こっているからです。  : お世話になります。森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に http://dl.ndl.go.jp...続きを読む, 明治文学と大正文学の違いについて教えて欲しいです。小さなことでもいいのでお願いします。. お世話になります。 芥川龍之介に、夏目漱石、森鴎外。この人たちの共通点といえば、もちろん歴史に名を遺した文豪ですが、もうひとつ。彼らは実は今でいう「スイーツ男子」だったということ! 随筆作品や親族が残した記録から、偉い先生たちも甘党だったことが明らかに。 く批判しています。き...続きを読む, 福沢諭吉 ドナルド・キーン 著 徳岡孝夫 訳. かまめの外に知るよしあらじ。」 金子みすず 夏目漱石とか同人誌出しまくってるオタクじゃん 10 : 風吹けば名無し :2020/07/24(金) 17:06:01.65 ID:Hfw5S/lK0.net 森鴎外は軍医としての実績がくそすぎる 夏目漱石は果敢にも近代を内側から乗り越えようとしたのである。 その姿勢は近代文学の王道と評価されて良い。 他方、もう一人の同時代者としての森鴎外は必ずしもそうではなかった。 明治文学…西洋文化をとりいれ、小説等の基礎をつくった。 森鴎外: B型? その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。 森鴎外 それ以外は、ほぼ勝手な推測によるものがほとんどであると思われます。, 遠藤周作: AB型 ウィキペディアで調べたところ、太宰が最初に「津軽」の中で志賀を批判し、それに立腹した志賀が太宰をけなす発言をし、だんだんエスカレートして遂に「如是我聞」が発表されたということらしいのですが、この対立の経緯について詳しく知りたいのです。 漱石の場合、英文学からの挫折、というような形で小説を書いてい … けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む, 最近太宰治の「如是我聞」を読んだのですが、その中で太宰が志賀のことを名指しでけちょんけちょんにけなしていました。 日露戦争の後におこった自然主義運動、そしていまなお読者をひきつけてやまない夏目漱石、森鴎外、白樺派の同人たち。 。井伏は太宰が故郷青森から上京した時から頼っている文壇の先輩であり、私生 【悲報】軍医総監時代の「森鴎外」…判断ミスで陸軍兵25万人を病気に 『舞姫』『雁(がん)』など、作家として知られている「森鴎外」。 実は、軍医の最高位である軍医総監(陸軍省医務局長)としての顔を持つエリートでもありました。 遠藤周作 東北大学附属図書館では、夏目漱石の旧蔵書および自筆資料からなる「漱石文庫」を所蔵しています。「夏目漱石ライブラリ」では、漱石文庫および夏目漱石に関連する情報を提供します。 これに対して、人間には理想がある。  で、自然主義にいく前に、浪漫主義という流れがあったのをご記憶でしょうか。雑誌...続きを読む, 森鴎外は初期に文語調で小説を発表していましたし、「浪漫主義的」と言えるような活動は評論と訳詩くらいでしたから、小説の内容とスタイルから考えるとあれは「擬古典主義」になりませんか? ちなみに、斎藤茂吉はこの後も「190 再び「鴎外」の號に就て ​」、さらに「192 鴎外の號に就て(三たび) ​」において、あらゆる角度から鴎外漁史の来歴研究を行っており、これを以て結論として捉えて構わないと思ってます。 漱石もこれに加わり俳句に熱中する。 12月帰京後「高浜虚子」に自らの文学上の後継者になることを依頼するが断られる。 29歳正月3日子規庵で句会が催され、「森鴎外」「夏目漱石」も同席する。以降 論争)それに嫌悪した太宰が、井伏批判、そしてその背後にある文壇、世間、そ 表するに至ったのではないでしょうか。 夏目漱石の作品を知っている方は多いかと思いますが、作品に登場する場所や彼のお墓をご存知の方は限られていると思います。 夏目漱石がこの世を去ってから約100年ということもあり、ここでは作品にゆかりのある場所やお墓を紹介していきたいと思います。 だから、本人も知らないことが多かったと思われます (まして他人は知らないから、記録にも残らない)。 森鴎外の墓の字でも知られている。 その前に 正岡子規 の住んだ 子規庵 がある。 明治二十七年二月一日、下谷区上根岸町八十二番地(現 台東区根岸二 -五-十一)へ母八重、妹律とともに転居。 森鴎外が文学史で出てくると、結構作品が並ぶことが多くて、1、2の作品でやるわけにはいきませんから、注意してください。 夏目漱石. 『夏目漱石 『猫』から『明暗』まで』鳥影社、2017年; 共著・共編 『日本文学史概説 近代編』東郷克美共編 有精堂出版 1979 『島崎藤村 文明批評と詩と小説と』剣持武彦共著 双文社出版 1996 『講座森鴎外』全3巻 平川祐弘、竹盛天雄共編 新曜社 1997 く批判しています。きっと志賀直哉自身にというより、彼に象徴される世間の偏 このように、初期鴎外が、いわゆる「擬古典主義」の作家たちと比較してもまったく「浪漫主義」的傾向を持たず、同時に、特に文体の「擬古文度」が劣っているわけでもないのに、「浪漫主義」と考えられているのはどうしてでしょうか? そこに伺えるかなぁという気がしています。 半村良のペンネームから一年後に、イーデス・ハンソン(良いです、半村)が活躍。両者は全くの偶然とのことです。 参考URL:http://www5c.biglobe.ne.jp/~kiryudo/souseki11.htm,http://www.keio.ac.jp/staind/194.htm, 日本文学の、写実主義と自然主義の違いがよくわかりません。 近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。 やはりそうなんですね。 例えば有名な「舞姫」は完全に文語です。そして、例えば「擬古典主義」にカテゴライズされる露伴「五重塔」や紅葉「金色夜叉」と比較して、いわゆる「リアリズム/ロマンチシズム」で考える場合に、内容は明らかに「舞姫」がリアリズム小説寄りです。 「漱石とその時代」「中村光夫全集」読んでみたいと思います。ありがとうございました。, 詳しい説明ありがとうございます。鴎外、漱石について分かっていなかった事を知ることが出来、勉強になりました。小説を読んでも、両者には正反対の部分があると感じていました。これをもとに、さらに鴎外、漱石の作品を読み進めていきたいです。, ありがとうございます。漱石は鴎外から手紙を貰っていたのですか。その日記というのは書店などで手に入るものなのでしょうか?また、互いに尊敬しあっていたと書かれている漱石の伝記を教えていただけないでしょうか?, ありがとうございます。私も2人は正反対の部分があると感じていました。でも、鴎外が求めていたのは社会的名声だけだったとありますが、本当にそうなのでしょうか?また、漱石は鴎外の存在など問題にしていなかったのでしょうか?両者がお互いにどう思っていたのかが書かれていたものは以外に少ないですね。, 「追悼文」に関するQ&A: 日本軍がいた国で、なぜ親日国と反日国があるのですか, 「夏目漱石」に関するQ&A: 夏目漱石「こころ」で「先生」が自殺する原因は?, 「小説 名前」に関するQ&A: 外国語の単語をモチーフに子供の名前を付けたいのですが, 「小説 虐待」に関するQ&A: 内田春菊さんについて気になることがあります。, ホームセキュリティのプロが、家庭の防犯対策を真剣に考える 2組のご夫婦へ実際の防犯対策術をご紹介!どうすれば家と家族を守れるのかを教えます!, 要するに自然主義のアンチはすべて反自然主義です。それ自体で自立し、確立している理論ではなく、さまざまな方向からのアンチがある幅の広い概念です。 自然主義文学です。 文学と神楽坂 長田幹彦氏が1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。 氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。 これはその時の話です。 大正文学…基礎が固まり応用へ。個性的な作家が多い。 はっきりとした事情をご存知の方がいたら、教えていただけないでしょうか。 その中にある、森鴎外・夏目漱石住宅を覗いてきました。 この建物であの「吾輩は猫である」が執筆されたそうです。 夏目漱石といえばオノトを愛用していたことで有名ですが、 この家に住んでいた頃は万年筆ではなく付けペンを使っていた時代です。 より、色々な派ができました。, いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。, 明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。 主義というだけには何か決定的なものはないのでしょうか?ただ単に時期が違うというだけなんでしょうか?日本の自然主義はヨーロッパのものとはまた違うなどあるみたいですが・・。 井伏も当時は貧乏作家で、さほど将来を嘱望されるような作家ではありませんでした。 前回は、修善寺の大患以降の漱石を通して反自然主義文学の潮流を見てきました。今回は、そんな漱石とともに独自の世界観を築き上げた巨頭、森鴎外を見ていきたいと思います。 以下が参考になるでしょう。 森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。 余裕派(よゆうは)、または彽徊派(ていかいは)、俳諧派(はいかいは)、写生文派 、写生派 は、戦前の日本文学の流派の一つ。 余裕派という名称は、夏目漱石が高浜虚子の小説『鶏頭』の序文で「余裕のある小説」と書いたことに由来する 。 概要.  で、自然主義にいく前に、浪漫主義という流れがあったのをご記憶でしょうか。雑誌『文学界』を拠り所に、北村透谷や初期の森鷗外らが活躍しました。その『文学界』の創刊当初のメンバーに、あの島崎藤村がキッチリ顔を見せているのです。彼は、浪漫主義抒情詩人として出発していたのでした。これがハナシをややこしくする元なんです。つまり…日本においては、自然主義というのは、写実主義からではなく、浪漫主義から派生したと言える部分がある、ということです。ヨーロッパとは全然ちがう経緯を辿っている。そのため、「自我」であるとか「内面性」であるとか、そういう浪漫主義的要素を多分に引きずることになりました。 明治23年「衛生新誌」紙上での漢詩文の内容は未詳ですが、ここに大正11年の「新小説臨時増刊」上での「文豪鴎外森林太郎」において、「私ごときの雅号が…」と鴎外追悼文中に認めていることを、斎藤茂吉は「童馬山房夜話.  紅葉や露伴が擬古典主義と呼ばれるのは、わざわざ西鶴などの文体を真似して小説を書こうとした活動を指すもので、ただ文語で書いただけの鴎外は擬古典主義とは呼ばれません。 http://www.geocities.co.jp/HiTeens/3807/mondaisyu/Bungakusi1.htm 写実主義は明治初期に坪内逍遥が提唱して二葉亭四迷が確立したものですよね? 漱石の略奪愛シリーズ第三弾『門』。『それから』のラストで、高学歴ニートを脱して職を探しに行った主人公のような立ち位置の人物が、悪戦苦闘する物語です。漱石作品の中でも、「いぶし銀」と … 日本文学は時代に繁栄しています。 遺書には「井伏さんは悪人です」とありますね。 三四郎(さんしろう):23歳の主人公。熊本から上京して東大生になり、美禰子に恋心を抱くようになる。 広田(ひろた):野々宮の師匠で、高校の英語の先生。 野々宮(ののみや):光の研究にいそしむ30歳の学者。三四郎と同じ熊本出身。 美禰子(みねこ):三四郎が憧れる女性。亡くなった兄の友人の野々宮と交際をしている。 与次郎(よじろう):三四郎の大学の友人。広田の家に下宿している。 文豪とは、圧倒的な文学の才能で当時から現代までさまざまな人々を魅了してきた作家のことです。そんな文豪たちの多くが、実は温泉宿を愛していたことをご存知でしょうか。彼らの作品内には、たびたび温泉地が登場します。  で、『破戒』なんですが、まず、被差別部落問題を背景としている点に、上記の意味での自然主義の特徴を認めることができます。一応。あくまでも、一応。 さらに、日本では反リアリズム・反私小説を反自然主義というばあいがよくあります。前者はリアリズムと自然主義を混同したことにより誤りです。 明治の人は、そもそも血液採取することが稀であったろうし、病院のお世話になったにしろ、「あなたの血液型は * 型です」といって、いちいち患者に教えることもなかったろう(今もそうだろうけ...続きを読む, 久しぶりに、”雁”を読み返しまして、そういえば、森鴎外というペン・ネームには、なにか、友人の使っていた雅号を借りた、とか、若いときのあまり名誉にならない思い出にまつわっている、と聞いた事があります。どうも、うやむやになっていたようです。 評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。 西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。 近代・現代篇二. 大雑把に言うと、 明治時代は試行錯誤しながら、小説とかを書いていたけれど 森鴎外と夏目漱石. 両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。 評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し などなど、いろいろ調べてみてください。まだまだ調べる事ができます。 ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で Amazon.com で、森鴎外の『知恵袋』 (講談社学術文庫) の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。 ふつうに「きょうせり」でいいの. その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。 現実を自然に見つめる、ということです。 ちなみに中西梅花 (幹男) 「新体梅花詩集」博文館(明24.3)の「鴎外漁史」においては杜甫を踏まえたものか、次の文句があります。 とまれ、若き頃の鴎外といい漱石といい、当座間に合わせのペンネームがこうも重い歴史を持つに至るとは知らぬ仏だったのでしょう。 森鴎外: B型? 森鴎外の墓の字でも知られている。 その前に 正岡子規 の住んだ 子規庵 がある。 明治二十七年二月一日、下谷区上根岸町八十二番地(現 台東区根岸二 -五-十一)へ母八重、妹律とともに転居。  言及 → http://www.hatirobei.com/%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99/%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C  どうでしょ? これで、「しこり」、消えます?, 実は僕も疑問に思いまして、調べてみたことがあるんです。 森鴎外や夏目漱石が大学入試問題の自分の作品の模範解答を見て「その部分はそういう意味じゃないよ」と言うと思いますか。 例 傍線の部分で著者は何を表現したかったのか答えなさい。 の象徴である"老大家"の志賀直哉批判、と日頃の不満が発展し、たまりにたまったうっぷんを 私小説は、日本の自然主義が科学精神と相交わることは少なく、事実尊重と告白を特徴としたためにエッセイのようなスタイルに傾斜していった、日本独特の小説です。これに対抗する流れが起こるは当然といえば当然でしょう。「四畳半フォーク」と「はっぴいえんど」の対置と考えればわかりやすいでしょうか? (ちと古い?) 日本ではむしろ、このような文脈(反私小説)で語られることが多いと思います。, 要するに自然主義のアンチはすべて反自然主義です。それ自体で自立し、確立している理論ではなく、さまざまな方向からのアンチがある幅の広い概念です。 柳ねふりし空を高み、 オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治〈終〉大正〈始〉】(小説・評論)〈12〉【反自然主義文学】③余裕派・高踏派(夏目漱石) 森鴎外さん以外に、反自然主義文学の巨匠としてあげられる作家は、誰でも知っている、 《夏目漱石》さん。この人だ。 4.鴎外の人柄からして、佐藤父子の「鴎外漁史」の後追いの形で、密かに自身の雅号に用いていたとは信じ難いこと。 その自然主義の特徴には、人間(または人間社会)の卑小性、無理想、無解決、技巧的には客観描写(観察...続きを読む, 反自然主義小説ってどんな小説の事ですか? | こんな説もある、というようなことでもかまいませんので、よろしくお願いいたします。, #6です。 便覧見ても人に聞いてもいまいちしっくりこなくてしこりを残してます。, 実は僕も疑問に思いまして、調べてみたことがあるんです。 漱石は、英国に留学するとき、「生きて面会致す事は到底叶ひ間敷と」(明治35年12月1日虚子宛書簡)、子規の死を覚悟していたという。 漱石は、「子規の病を慰める為め、当地彼地の模様をかいて遥々と二三回長い消息」を送った。 一回芥川賞を逸したり、その後もあの手この手で受賞の依頼をするなどしても 文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。 >鴎外が、春の嵐の様子を描いた杜甫の詩句から取られたものだというのは、初めて知りました。お弟子の斉藤勝寿氏と、どんなやり取りののちに、この詩句を採用したのか、興味の湧くところです。 (蛇足ですが、万葉時代の鴎は「加万目」でした。) はき出すように、意を決して「如是我聞」を発  言及 → http://blog.alc.co.jp/blog/2000455/3250 オチケン風『日本文学史』近現代Ⅰ【明治〈終〉大正〈始〉】(小説・評論)〈12〉【反自然主義文学】③余裕派・高踏派(夏目漱石) 森鴎外さん以外に、反自然主義文学の巨匠としてあげられる作家は、誰でも知っている、 《夏目漱石》さん。この人だ。 明治23年「衛生新誌」紙上での漢詩文の内容は未詳ですが、ここに大正11年の「新小説臨時増刊」上での「文豪鴎外森林太郎」において、「私ごときの雅号が…」と鴎外追悼文中に認めていることを、斎藤茂吉は「童馬山房夜話. に嫌悪感を抱いていたのかもしれません。(やっかみも少しはあったかもしれま 「如是我聞」は、死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で、 夏目漱石を中心としたグループが「余裕派」、森鴎外らが「高踏派」。 代表的な作品:夏目漱石『草枕』『三四郎』『こころ』、高浜虚子『風流懺法』、森鴎外『雁』『阿部一族』『高瀬舟』、堀口大學『月光とピエロ』など 大正時代の文学思潮 本当に簡単だけれど。。。 菊池寛 森鴎外『鷗外随筆集』千葉俊二編、岩波書店〈岩波文庫〉、2000年11月。 isbn 4-00-310068-9。 森鷗外『鷗外女性論集』金子幸代編・解説、不二出版、2006年4月。 isbn 4-8350-3497-x。 森潤三郎『鷗外森林太郎傳』昭和書房、1934年。 なるほどと思います。 今日の読売新聞読書欄『本 よみうり堂』の恒例「どっち派?」は、夏目漱石と森鴎外でした。まさに真打登場と言った感じで、新聞のキャプションも「とうとう頂上対決の時がやって来ました。