交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」 第5楽章、5. [吹奏楽] 交響曲第4番より 第1楽章 ロマンあふれる曲想で圧倒的な人気を誇るロシアの作曲家チャイコフスキー。 6つの交響曲の中でも特に名高い第4番には、チャイコフスキー自身による「運命」というものへの哲学が隠されていると言われています。 交響曲第5番ハ短調,op.67「運命」 すべてのクラシック音楽を代表する1曲です。冒頭の「ジャジャジャジャーン」(あるいは「ダダダダーン」)という部分は,子供から大人まで誰もが知っています。 チャイコフスキーの交響曲の中でもとりわけ演奏されることの多い第5番から、終楽章ががついにノーカット原調版で登場。 木管楽器の厚いオーケストレーションと金管楽器の力強い主題により豊かな響きが感じられるアレンジです。 ベートーヴェン: 交響曲 第4番&第5番《運命》 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン. 交響曲第5番 (ベートーヴェン) 楽器編成 編成表木管金管打弦Fl.2, Fl.picc. 指揮:フィリップ・ジョルダン(Philippe Jordan/1974年-) スイスの指揮者 2009年:パリ国立オペラの音楽監督に就任 2014年:ウィーン交響楽団首席指揮者に就任 2020年:ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任 グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団(Gustav Mahler Jugendorchester) ウィーンを拠点としており、26歳以下で構成されるユース・オーケストラ 【吹奏楽/アレンジ】 交響曲第5番第4楽章〈原調〉(チャイコフスキー/鈴木栄一) チャイコフスキーの交響曲の中でもとりわけ演奏されることの多い第5番から、終楽章がついにノーカット原調版で登場。 0:12:27 ¥838. 「交響曲第5番 第4楽章(アダージェット) / マーラー」(ピアノ(ソロ) / 中級)の楽譜です。映画『ベニスに死す』メインテーマ ページ数:4ページ。価格:473円。ぷりんと楽譜なら、楽譜を1曲から簡単購入、すぐに印刷・ダウンロード! ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan/1908年4月5日-1989年7月16日), ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker). もし実現できれば、すばらしい標題だ, アーヘンでの六週間、命運がつきながら死ぬこともできず、ひどく悩み苦しんでいる人間との生活は、言葉にならない程苦しいものでした。これは私の人生の最も暗い部分の一つでしょう。人生に疲れ、悲しい無気力に陥り、私自身ももうすぐ死ぬかもしれないという感情と、死が近づくことで私自身の人生において重要で本質的なものを成している全てが、小さな詰まらない、そして全く目的の無いもののような気がしているのです。, 僕の宗教は限りなく明白になった。この間、僕は神について、生と死について、とくにアーヘンでは、何のために、どうやって、なぜ? 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」 第1-4楽章 <disc4> 4. ベートーベン、すごいドン・パチ曲. 未完成の第10番を含めると11曲あるマーラーの交響曲の中で、この第5番は屈指の人気曲だといえる。ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でこの曲の第4楽章が使われて以来テレビのCM等にもBGMとして多く使われている。 「交響曲第5番」は、マーラーが円熟期に入った頃の作品です。 この頃のマーラー(42歳)は20歳も年下のアルマと結婚(1902年3月)したばかりで、またさまざまな芸術家と交流が持ち始めた時期でした。 2人とも初婚であったので、まさに幸せな生活を送っていたことでしょう。 二人はまさに「電撃結婚」で、出会って1カ月で婚約しその4か月後には結婚しています。 そしてその年の夏にマイアーニックの山荘でこの「交 … 交響曲 第9番 変ホ長調 作品70: 第4楽章: Largo - 0:03:34 ¥523. ... 交響曲 第5番 ニ短調 作品47: 第4楽章: Allegro non troppo. 交響曲第5番 ハ短調 作品67(こうきょうきょくだい5ばん ハたんちょう さくひん67)はベートーヴェンの作曲した5番目の交響曲である。日本では一般に「運命」と呼ばれ、クラシック音楽の中でも最も有名な曲の1つである。 第2楽章はラスト2小節でリタルダンド。第4楽章284小節の4拍目を「F、As」で演奏していて注目される。 2001.2.14 記 2007.8.16 更新 2007.12.22 更新 2008.2.17 更新 2008.6.30 更新 2009.3.6 更新 … 4. こういうタイプはフランクの交響曲も大いに嫌っていそうです。まさか知らないなんて言わせません。ベートヴェンの交響曲では3番の1,4楽章、5番の1,4楽章、6番の1楽章、7番の1,4楽章、第九の4楽章ばかりを聴いて、それ以外は全く聴かなさそうです。 1 (第4楽章)Hr.2 (第1、第3楽章はEs管2、第2、第4楽章はC管2)Timp. 交響曲 第9番 ニ長調 第1楽章 <disc5> 5. マーラーの交響曲は第2番から第4番までが声楽の入ったいわゆる「角笛交響曲」なのに対し、この第5番から第7番までは声楽のない作品が続きます。 ここではマーラー「交響曲第5番」の解説や名盤を紹介したいと思います。 マーラー「交響曲第5番」の演奏 ベートーヴェン: 交響曲 第4番&第5番《運命》 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団, レナード・バーンスタイン. 交響曲第5番 (ベートーヴェン) 楽器編成 編成表木管金管打弦Fl.2, Fl.picc. ベートーヴェンの、あまりにも有名な交響曲 第5番 ハ短調〝運命〟。 今回は、第2楽章から最後まで聴きます。 マーラー:交響曲第5番が交響曲・管弦楽曲・協奏曲ストアでいつでもお買い得。当日お急ぎ便対象商品は、当日お届け可能です。アマゾン配送商品は、通常配送無料(一部除く)。 交響曲 第4番 変ロ長調 作品60 第3楽章:アレグロ・ヴィヴァーチェ - トリオ ウン・ポコ・メノ・アレグロ 00:06:01 マーラーの交響曲第5番(嬰ハ短調)は、1902年に作曲されています。 ウィキペディア(Wikipedia)を元に記述すると、マーラーの作曲活動の中期を代表する作品で、マーラーは1860年生まれなので、40歳過ぎに作曲されたもので、約70分という5楽章から構成された長大な交響曲です。 ベートヴェンの交響曲では3番の1,4楽章、5番の1,4楽章、6番の1楽章、7番の1,4楽章、第九の4楽章ばかりを聴いて、それ以外は全く聴かなさそうです。 それでも尚クラシックファンだと自称するのだからお笑い以外の何になるのでしょう? また第1楽章後半でオペラ「カルメン」のハバネラを彷彿させる音楽が登場しますが、作曲当時ショスタコーヴィチが恋をしていた女性が別の男性と結婚しカルメンという姓になったという話もあります。 交響曲 第9番 ニ長調 第1楽章 <disc5> 5. 交響曲第4番は後の第5番、第6番と共にチャイコフスキーの三大交響曲と呼ばれ、 その中でも一番華やかさに満ちた作品です。 終楽章である第4楽章は歓喜に満ちた音楽となっており、交響曲の終楽章としては正統派といえるものです。 交響曲第4番は、その頃生まれました。全4楽章の基調となっているのは、内面に秘めた情熱と孤独感からくる哀愁。そして極めて堅実で新古典主義的な作曲手法。 交響曲第5番(こうきょうきょくだい5ばん)嬰ハ短調は、グスタフ・マーラーが1902年に完成した5番目の交響曲。 5楽章からなる。 マーラーの作曲活動の中期を代表する作品に位置づけられるとともに、作曲された時期は、ウィーン時代の「絶頂期」とも見られる期間に当たっている。 1 (第4楽章)Hr.2 (第1、第3楽章はEs管2、第2、第4楽章はC管2)Timp. 第5交響曲を構成する4つの楽章について、主題や動機の相互関係、調性あるいは旋法的な構造を中心に … この作品は「シベリウスの生誕50年」の祝賀演奏会のために作られた作品です。 母国フィンランドの政府の国家的行事としてお祝いされ、初演も大成功を収めました。 第1次世界大戦の動乱の中で作曲されたこの作品は、「第2番」に次いで人気のある交響曲として愛されています。, 指揮:レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein/1918年-1990年) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker) [00:53]第1楽章:Tempo molto moderato-Allegro moderato-Presto [16:10]第2楽章:Andante mosso, quasi allegretto [26:25]第3楽章:Allegro molto-Un Pochettino largamente-Largamente assai, シベリウスは母国フィンランドを題材とした「クレルヴォ交響曲」(1892年)以降、「フィンランディア」など愛国的な作品を作曲していきます。 やがてシベリウスは、国際的にも名声を獲得していきます。, フィンランド政府は、この「国民的作曲家シベリウス」の生誕50年を国家的な行事として祝うことを決めました。 そしてこの祝賀演奏会のために書かれた作品が「交響曲第5番」です。 新聞や街全体も、このお祝いムードで溢れたそうです。, シベリウスは他の作曲の仕事も入っており多忙な生活を送っていたそうですが、何とか期日までに作曲を終わらせたそうです。, 初演はヘルシンキでシベリウスの50歳の誕生日(1915年12月8日)に、シベリウス自身の指揮でおこなわれました。 初演はもちろん大成功でしたが、シベリウスは1916年と1916年の二回に渡り改訂をおこないます。 4楽章が3楽章になるなど大幅な改訂がありました。, もしかすると期日の迫っていた初稿では、シベリウスは納得のいく作品まで到達できなかったのかもしれません。 また、シベリウスがこれほど大改訂をおこなった交響曲は、彼の生涯の中で「第5番」だけでした。, 「交響曲第5番」は、「第4番」の完成から3年後(1914年)に作曲が開始されました。 しかし作曲年は近いですが、「第4番」と「第5番」は対照的な作品となっています。, 「第4番」を作曲した頃、シベリウスは喉頭癌の疑いがもたれ辛い闘病生活を送っていました。 最終的に体調は回復しますが、この「死」を感じた経験が「第4番」の音楽に影響していると言われています。, 一方で「第5番」は「祝賀演奏会」のための作品です。 この2つの作品の性格が大きく異なるのは、当然のことなのかもしれません。, 変ホ長調 初演時の第1楽章と第2楽章をまとめて「最終稿の第1楽章」となったため、複雑な構成になっていると言われている。 ソナタ形式の牧歌的な前半とスケルツォの後半からなる。 12~14.5分, ト長調 主題はヴィオラとチェロのピッツィカートにより提示され、第1楽章とは対照的な素朴な雰囲気が印象的である。 8~10分, 変ホ長調 疾走するような弦のトレモロによる動機は、シベリウスが好んで使用したものである。 この主題と鐘をイメージさせるホルンの動機により音楽は進み、フィンランドの大自然を感じさせる音楽が鳴り響く。 最後に盛り上がりは最高潮に達し、鋭い和音が6度連打され全曲は終わる。 8~10分, シベリウスは、カラヤンを「自分の作品のただひとりの最高の解釈者」と評したそうです。 交響曲の第4番~第7番までと、「トゥオネラの白鳥」「タピオラ」が収録されています。, ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan/1908年4月5日-1989年7月16日) オーストリアの指揮者, 1955年から1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務める。 ウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督も務めるなど、歴史上最も偉大な指揮者の一人である。 日本には11度も来日しており、日本人には小澤征爾が師事したことでも知られている。, ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker) 世界を代表するオーケストラの一つで、日本において絶大な人気を誇る。 重厚なドイツ的サウンドを奏でながらも、バラエティに富んだプログラムを演奏し常に世界の最先端をリードしている。. 【曲目】 ショスタコーヴィチ: (1)交響曲第4番ハ短調Op.43 (2)交響曲第5番ニ短調Op.47 (3)交響曲第6番ロ短調Op.54 【演奏】 第4楽章 Sehr behaglich. 未完成の第10番を含めると11曲あるマーラーの交響曲の中で、この第5番は屈指の人気曲だといえる。ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』でこの曲の第4楽章が使われて以来テレビのCM等にもBGMとして多く使われている。 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」 第1-4楽章 <disc4> 4. 4. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 作品67より 第1楽章 L.v.Beethoven : Symphony No.5 in c minor op.67 1mvt. マーラー:交響曲第5番が交響曲・管弦楽曲・協奏曲ストアでいつでもお買い得。当日お急ぎ便対象商品は、当日お届け可能です。アマゾン配送商品は、通常配送無料(一部除く)。 第1楽章冒頭の自筆譜 自由・平等・博愛を追求した作曲家. マーラーの交響曲第5番(嬰ハ短調)は、1902年に作曲されています。 ウィキペディア(Wikipedia)を元に記述すると、マーラーの作曲活動の中期を代表する作品で、マーラーは1860年生まれなので、40歳過ぎに作曲されたもので、約70分という5楽章から構成された長大な交響曲です。 ショスタコーヴィチ(Dmitri Shostakovich)作曲「交響曲第5番 作品47」の譜例入り楽曲解説です。主題の調性、旋法的な構造やそれぞれの関係を掘り下げて検討しています。関連研究の補注、参照文献リ … 交響曲第4番は後の第5番、第6番と共にチャイコフスキーの三大交響曲と呼ばれ、その中でも一番華やかさに満ちた作品です。 終楽章である第4楽章は歓喜に満ちた音楽となっており、交響曲の終楽章としては正統派といえるものです。 信仰の抱擁に身を委ねるべきではないか??? ショスタコーヴィチ:交響曲第5番、第8番&第9番、他 ボストン交響楽団, アンドリス・ネルソンス. 【曲目】 ショスタコーヴィチ: (1)交響曲第4番ハ短調Op.43 (2)交響曲第5番ニ短調Op.47 (3)交響曲第6番ロ短調Op.54 【演奏】 Amazon.com で、ブルックナー:交響曲第9番(第4楽章付)補筆完成版 の役立つカスタマーレビューとレビュー評価をご覧ください。ユーザーの皆様からの正直で公平な製品レビューをお読みください。 冒頭の『キミガイナイ』の登場シーンに戻ると、これらのことから「マーラーの交響曲」とは、第5番第4楽章アダージェットのことで、メンバーに担がれて登場する渡辺梨加は、ジョン・f・ケネディの葬儀をイメージしているのではないだろうか? 非常に心地よく。ト長調 - ホ長調 4分の4拍子。 ソプラノ独唱が天国の楽しさを歌う(譜例6)。各節の区切りで歌われるコラール風の旋律は、交響曲第3番の第5楽章でも使用された … XXXに対する不満、疑い、不平、非難。II. ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章がとても好きです。先日、『落下の王国』という映画でこの曲がとても効果的に使用されていました。他にも、この曲を使用した映画がないかと思い、質問させていただきます。 2020/05/20 (P) 1980 Deutsche Grammophon GmbH, Berlin (C) 2018 UNIVERSAL MUSIC LLC ソビエト共産党からの信頼を回復するべく、ショスタコーヴィチは前衛的で複雑な交響曲第4番を封印し、革命20周年という記念すべき1937年に合わせるかのように、古典的で単純明瞭な構成の『交響曲第5番ニ短調』を完成させた。 第5交響曲は翌年4月に着手され、9~10月に完成、11月21日. ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 作品67より 第1楽章 L.v.Beethoven : Symphony No.5 in c minor op.67 1mvt. が、私の中でしばしば起こり、不安気に飛びかうのかという、宿命的な問題についてたくさん考えた, 私の新しい交響曲をペテルブルグで二度、プラハで一度演奏した結果、この曲が不成功であるという確信に達しました。ここには何か余分で雑多なもの、不誠実でわざとらしいものがあります。, 「勝利」を達成しようとするヒステリックに誇張された努力が、結局は「空虚」でわざとらしいとしか響かず、「宿命」の不可避的に圧倒的な力と、それに抗する戦いがどんなに強く、一見その成果がどんなに成功したと見えても、それの無意味さという印象を残してしまう。だから交響曲第5番の意味は、壮大な闘争と一時的な勝利があるにもかかわらず、宿命の避けがたい力に抗する戦いの敗北である。, 2月22日(ユリウス暦2月10日)にはロシア音楽協会モスクワ支部の理事長に選ばれている, コンドラーチエフは、チャイコフスキーがマイダーノヴォに帰ってから1か月後に亡くなっている, 「夏と秋はフローロフスコエから何処にも出掛けないで、たくさんの仕事をしたいのです。・・・・・・新しい交響曲を考えております, 完成直後の9月1日(ユリウス暦8月20日)には、チャイコフスキーは『眠りの森の美女』の台本を手にしている, 交響曲第4番はフォン・メック夫人に献呈されており、チャイコフスキーは彼女にあてた手紙では同曲を「私達の交響曲」と呼んでいた, 作品の献呈を受けたアヴェ=ラルマンは病を患っており、手紙でチャイコフスキーに謝意を示している, ブラームスはチャイコフスキーのリハーサルを聴くために滞在日程をわざわざ延長していた, 1888年12月22日(ユリウス暦12月10日)又は12月23日(ユリウス暦12月11日)のいずれか, グレン・ミラー楽団による『ムーン・ラヴ』は、1939年7月15日から10月7日まで12週連続でヒットチャート入りしている, 日本の音大生やアマチュア演奏家によるワークショップ「ロマン派音楽研究会《ROMUVE》」, メンゲルベルクのスコアには、1910年に交響曲第5番を演奏するためにモスクワを訪れた際に、モデストから作曲者本人の書き込みがある楽譜を見せてもらったと記されているが, カットについては校訂報告及び注で触れられており、楽譜そのものがカットされているわけではない。, イ・クーニン(イオシ・フフィリッポビチ・クーニン)著、川岸貞一郎訳『チャイコフスキー伝』、新読書社、1965年10月10日、179-180頁, 園部史郎(解説)『チャイコフスキー 交響曲第五番 ホ短調 作品64』、全音楽譜出版社、1980年、, 伊藤恵子『作曲家◎人と作品 チャイコフスキー』、音楽之友社、2005年6月10日、, 井上和雄(項目執筆)『最新名曲解説全集 第2巻 交響曲II』、音楽之友社、1979年11月1日、121頁, 森垣桂一(解説)『チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調 作品64(OGT 2121)』、音楽之友社、2010年8月10日、, 池辺晋一郎『チャイコフスキーの音符たち 池辺晋一郎の「新チャイコフスキー考」』、音楽之友社、2014年9月30日、, 森田稔ほか『チャイコフスキー』、ティービーエス・ブリタニカ、1990年9月15日、, 金子建志「チャイコフスキーの初期様式 - 交響曲〈1番〉から〈4番〉へ -」『常葉学園短期大学紀要第40号』、2009年12月、NAID 110007659731、1頁, 森田稔『ロシア音楽の魅力 - グリンカ・ムソルグスキー・チャイコフスキー - 』、東洋書店、2008年11月25日、, 森田稔『新チャイコフスキー考~没後100年によせて』、日本放送出版協会、1993年11月20日、, フランシス・マース著、森田稔ほか訳『ロシア音楽史 - 《カマーリンスカヤ》から《バービイ・ヤール》まで』、春秋社、2006年3月20日、, 寺西春雄『チャイコフスキー 大音楽家 人と作品11』、音楽之友社、1984年11月20日、, 日本指揮者協会編『日本指揮者協会創立50周年に寄せて』、音楽之友社、2005年6月30日、169頁, ドナルド・ジェイ・グラウト、クロード・V・パリスカ(著)、戸口幸策ほか(訳)『グラウト/パリスカ 新 西洋音楽史(下)』、音楽之友社、2001年11月20日、, (Score) Breitkopf & Härtel (2018), p. 170, 菅野浩和(項目執筆)『最新名曲解説全集 第1巻 交響曲I』、音楽之友社、1979年11月1日、347-349頁, (Score) Breitkopf & Härtel (2018), p. 139, (Score) Breitkopf & Härtel (2018), p. 169, (Score) Breitkopf & Härtel (2018), p. 178, THEATRES AND CONCERTS, MusicHall Boston Symphony Orchestra (p. 5), О некоторых изустных традициях и коррективах исполнения, One Hundred Men and a Girl (1937) Soundtracks, GLENN MILLER AND HIS ORCHESTRA “TOP 10 HITS”1939-1943, Joel Whitburn's Pop memories, 1890-1954 : the history of American popular music : compiled from America's popular music charts 1890-1954 (p. 42), CHIEF CONDUCTOR NICHOLAS COLLON ON TCHAIKOVSKY'S SYMPHONY NO. Deutsche Grammophon (DG) 2016/05/27 クラシック音楽「名曲」の解説と名盤(Musica Classica) All Rights Reserved. 初演は大成功 体制側も絶賛. 64)は、ロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが作曲した交響曲である。チャイコフスキーの円熟期にあたる[1]1888年の作品であり、交響曲第4番ヘ短調作品36とは作曲時期に10年の隔たりがある[2][注 1]。, 4つの楽章からなり、演奏時間は約42分[4]。一つの主題が全ての楽章に登場し作品全体に統一感を与えている[5][6]。この主題は「運命」を象徴しているとされており[4][6][7][8]、第1楽章の冒頭で暗く重々しく提示されるが[9]第4楽章では「運命に対する勝利」を表すかのように輝かしく登場する[10][11]といった具合に、登場するつど姿を変える[12]。第1楽章と第4楽章は序奏とコーダがあるソナタ形式[13]。緩徐楽章である第2楽章は極めて美しい旋律をもち[14][15]、第3楽章にはスケルツォの代わりにワルツが置かれている[16]。, チャイコフスキーは初演を含めて6回この曲を指揮したが[17]、作品に対する自己評価は揺れ動いた[18]。今日では均整がとれた名作の一つとして高く評価されており[18][19]、交響曲第4番、交響曲第6番『悲愴』とともに後期の「三大交響曲」として高い人気を得ている[20][21]。, 1866年の交響曲第1番『冬の日の幻想』以来、チャイコフスキーは数年おきに番号付きの交響曲を発表しているが、交響曲第4番と交響曲第5番の間には10年の開きがある。, 1878年1月(ユリウス暦1877年12月)に交響曲第4番を完成させた後、チャイコフスキーは同年10月にモスクワ音楽院の教授を辞職し[22][23]、外国のホテルとロシアの親戚・知人の家を交互に泊まり歩く放浪の作曲家となっていた[24][注 2]。チャイコフスキーは1876年以来フォン・メック夫人から経済的な支援を受けおり、自由な生活を続けながら作曲に専念することができたのである[27]。, この時期には、チャイコフスキーの作曲家としての名声はロシア国内において確立され[28][注 3]、作品はニューヨークやロンドンでも演奏されるようになった[31]。ただし、放浪中のチャイコフスキーが自由を謳歌していたかと言うと決してそうではなく、精神的な支えであった友人ニコライ・ルビンシテインの死、経済的な後ろ盾であるフォン・メック夫人破産の噂、妹アレクサンドラの家庭崩壊[注 4]、進展しない離婚問題[注 5]などはチャイコフスキーの精神を不安定にしていた[36]。, やがてチャイコフスキーはロシアの村で残りの人生を過ごしたいと考えるようになり[37]、1885年2月にモスクワから北に約80km離れたマイダーノヴォ(Майданово)に家を借り[38]、6年以上に及んだ放浪生活に終止符を打った[注 6][注 7]。その後、1888年5月(ユリウス暦4月)にはさらに良い環境を求めて[19]マイダーノヴォからフローロフスコエ(ロシア語版)に移り住み[41]、交響曲第5番はこの地で作曲された[42][注 8]。, 交響曲第4番から交響曲第5番までの間の10年については、チャイコフスキーがスランプに陥っていた「低迷期」であるとする評価がかつてあり[44][45]、管弦楽のための組曲[注 9]や『弦楽セレナーデ』といった複数の楽章で構成される作品は、交響曲を書きたくても書けなかったことから生まれたものであるとも言われていた[46][47]。, しかし、実際には、管弦楽のための組曲第1番~第4番(1879年~1887年)、ピアノ協奏曲第2番(1880年)、『イタリア奇想曲』(1880)、『弦楽セレナーデ』(1880年)、序曲『1812年』(1880年)、ピアノ三重奏曲『偉大な芸術家の思い出に』(1882年)、オペラ『マゼッパ』(1883年)、『マンフレッド交響曲』(1885年)、オペラ『チェレヴィチキ』(1887年)などの作品が完成しているように、着実に創作は続けられており[44]、この時期のチャイコフスキーは、晩年における更なる飛躍[注 10]のために試行錯誤を続けていたと考えられている[44][20]。なお、ロシア音楽の研究者フランシス・マースは、1880年代のチャイコフスキーを、この時期におけるロシアの最大の作曲家と評価している[48]。, チャイコフスキーが音楽のアイデアや生活に関するメモを記した作曲ノートは19冊が残っており[49]、1887年夏から1888年春にかけて書かれた4冊目のノートには[5]、同じ時期に作曲が進められた『ハムレット』に基づく舞台音楽[注 11]と交響曲第5番の構想が記されている[50]。そこに見られるワルツ主題(第3楽章)の原案は1887年8月に書かれたものと考えられており[5][51][注 12]、作曲の約1年前に着想があったことになる。また、後に「運命の主題」と呼ばれる主題の原案もあり、これは同年秋のものと考えられている[5]。, ノートには楽譜のみならず言葉でもアイデアが記されており、第2楽章の原案の一部と見られる楽譜には次のような言葉が添えられている[5]。, チャイコフスキー自身は、交響曲第5番に 標題(プログラム。一定の叙述的な内容のこと[52])は存在しないと後に述べているが[53]、以下に示すノートの書き込みは交響曲第5番につながる標題であると考えられている[5][6][51][53]。, この標題については『ハムレット』との関連や[注 13][49]、次に述べる1887年夏のアーヘンにおける体験との関連が指摘されている[53][51]。, 1887年7月、かねてからの友人ニコラーイ・ドミートリエヴィッチ・コンドラーチエフが病のために死期が近づいていると知ったチャイコフスキーは[55][注 14]、コンドラーチエフが療養中であったドイツのアーヘンに向かった[55]。アーヘンには7月27日(ユリウス暦7月15日)から9月6日(ユリウス暦8月25日)までの約40日間滞在し[55][61]、ここで終末期のコンドラーチエフに付き添った[62][注 15]。チャイコフスキーはアーヘンから戻った後に以下のように記している。, アーヘンでは、死に怯える病人に接し続けたことでチャイコフスキー自身も精神的に不安定になり体調も壊した[65]。しかし、ここでの体験はチャイコフスキーが死や宗教に対する思索を深めるきっかけとなり[62]、そのことが以降の作品や、前述した交響曲の標題に影響を与えていると考えられている[51][53]。, 1887年1月に自作のオペラ『チェレヴィチキ』の初演で指揮者として本格的にデビューしたチャイコフスキーは[66][注 16]、前述のアーヘンでのできごとの後、12月には指揮者として初のヨーロッパ演奏旅行に出発[62]。翌1888年3月にかけてライプツィヒ、ハンブルク、ベルリン、プラハ、パリ、ロンドンなどの各都市で成功をおさめるとともに[68]、ブラームス、マーラー、グリーグ、ドヴォルザーク、リヒャルト・シュトラウス、マスネ、ドリーブといった作曲家や各地の演奏家と交流した[69][70]。, この演奏旅行中、ハンブルクでは同地のフィルハーモニー協会理事長テオドール・アヴェ=ラルマン(英語版)に出会い、親交を深めた[71]。84歳にしてハンブルク音楽界の重鎮であるアヴェ=ラルマンは大のロシア嫌いであり[72]、チャイコフスキーの音楽に対しても打楽器がやかましいなどとして否定的であった[71][72]。しかし、アヴェ=ラルマンはチャイコフスキーにドイツの優れた作曲家にも通じる資質を認め[72]、ロシアを捨ててドイツに移住することを熱心に勧めたという[73]。後に交響曲第5番が完成すると、チャイコフスキーは当初交響曲を献呈してようと考えていたグリーグではなく[74]アヴェ=ラルマンに作品を献呈した[75][注 17]。その理由については、ハンブルク滞在中における細やかに気配りに感動したからとも[75]、彼のロシア音楽に対する見方を変えたかったからとも言われる[77]。, ヨーロッパ演奏旅行の帰路、チャイコフスキーは弟アナートリィ(ロシア語版)が控訴院の検察官として赴任していたティフリス(現在のジョージアの首都トビリシ)に立ち寄り[66]、4月7日(ユリウス暦3月26日)から4月26日(ユリウス暦4月14日)までの3週間をそこで過ごした[78]。ここから弟モデストやフォン・メック夫人にあてた手紙では、夏に新しい交響曲を作曲するつもりであると述べているが[41][51][注 18][注 19]、5月27日(ユリウス暦5月15日)でモデストにあてた手紙では、様々な校訂作業があるために交響曲にはまだ着手できていないと報告している[41]。, ところが、そのわずか4日後に書かれた5月31日(ユリウス暦5月19日)付けのモデストあての手紙には「目下、役に立たなくなった自分の脳味噌から、苦心惨憺して交響曲を絞り出すことを始めようとしている。[41]」とあることから、この日以降、作曲の作業に取りかかったものと考えられている[41]。チャイコフスキーはここから約1か月の間に全曲のスケッチを完成させ[注 20]、引き続きオーケストレーションに取りかかり、8月26日(ユリウス暦8月14日)に作品を完成させている[5][注 21]。, 11月8日(ユリウス暦10月27日)には楽譜の初版がユルゲンソーン社から出版された[74][82]。また、四手ピアノ版がセルゲイ・タネーエフによって編曲されており、その第2楽章と第3楽章が11月6日(ユリウス暦10月25日)、モスクワにおいてタネーエフとアレクサンドル・ジロティのピアノによって披露されている[83]。, 交響曲第5番の初演は、1888年11月17日(ユリウス暦11月5日)、作曲者自身の指揮によりペテルブルクで行われた[82]。聴衆の反応は良かったが専門家の批評は芳しくなく[82][84][85]、「3つのワルツを持った交響曲[82]」などと揶揄された[注 22]。「力強い仲間」(いわゆる「ロシア五人組」[67])の一人である作曲家ツェーザリ・キュイに至っては、第3楽章におけるワルツの使用を「ワルツの形は狭くて軽々しい。組曲には使うが、常に厳格で、厳格なる形式を秩序としている交響曲には使わない。[86]」と批判し、さらに「全体として交響曲は思想が貧弱で、お定まりで、音が音楽に勝っていて、聴くに耐えない。[86]」と酷評した[15][86]。, 初演に引き続き、チャイコフスキーは11月24日(ユリウス暦11月12日)に行われたペテルブルクでの再演および11月30日に行われたプラハ初演で同曲を指揮した[82][87][注 23]。作曲の終わり頃には新しい交響曲を「今までのものより悪くない[5]」と前向きに評価していたチャイコフスキーであったが、ここまでの3回の演奏を終えてすっかり自信を失った[83]。フォン・メック夫人にあてた12月14日(ユリウス暦12月2日)付けの手紙では次のように述べている[82]。, 12月22日(ユリウス暦12月10日)とその翌日、チャイコフスキーはモスクワで交響曲第5番を二日連続で指揮しているが[91]、この演奏は好評であった[82]。その後、1889年2月5日(ユリウス暦1月24日)、チャイコフスキーは2度目となるヨーロッパ演奏旅行に旅立ち、2か月にわたって、ケルン、フランクフルト、ドレスデン、ベルリン、ジュネーヴ、ハンブルク、ロンドン[92][93]の各都市を回り自作を指揮した。この旅行中、交響曲第5番が取り上げられたのは3月15日(ユリウス暦3月3日)に行われたハンブルクでの演奏会のみであった[82][94][注 25]。このハンブルクでの演奏(ハンブルク初演)に先立ち、チャイコフスキーはジュネーヴに滞在していた3月8日(ユリウス暦2月24日)に第4楽章の一部をカットしている[82][97]。, ちょうどハンブルクを訪れていてリハーサルを聴いたブラームスは[注 26]、交響曲の第1楽章から第3楽章までは良いが[82]第4楽章は気に入らないとチャイコフスキーに伝えたが[98]、演奏会自体は大成功であり[82]、自信を取り戻したチャイコフスキーは[94]モデストにあてて「嫌いになりかけていたこの曲がまた好きになった。[99]」と書き送っている[注 27]。, なお、ハンブルク初演の10日前にあたる3月5日、海を越えたアメリカ・ニューヨークでは セオドア・トーマスにより交響曲第5番がコンサートで紹介されている[101]。, ハンブルク初演を成功させたチャイコフスキーであったが、それ以降、チャイコフスキーが自ら指揮する演奏会において交響曲第5番を取り上げることはなかった[102]。交響曲第5番の真価が広く世に知られるようになったのは、チャイコフスキーが「天才的」と高く評価した[103]ハンガリー出身の指揮者アルトゥル・ニキシュの活躍に負うところが大きい[82][注 28]。, ニキシュは交響曲第5番をレパートリーとし、ロンドン、ライプチヒ、ベルリンなどにおいて大成功をおさめた[17][82][注 29]。ニキシュ本人によれば、1892年にペテルブルクでニキシュが交響曲第5番を指揮した際、そのリハーサルを見たチャイコフスキーは、ニキシュの棒の下でのオーケストラの変わりように驚き、彼の演奏を高く評価するとともに大いに感謝したとされる[17]。, 当時モスクワ音楽院で作曲を学んでいたゲオルギー・コニュスの回想によれば、モスクワで交響曲第5番の初演が行われた後[注 30]、チャイコフスキーは第4楽章のコーダ(プレストになる2小節前の1拍目)で、そもそも楽器編成に含まれていないシンバルを ff で1発鳴らすべきだったと語り、将来楽譜を修正する際にはシンバルのパートを追加することを忘れないよう指示したという[106][107]。結局、出版譜がチャイコフスキーの意向に沿った形で修正されることはなかったが、ニキシュはコンサートで交響曲第5番を指揮する際にこのシンバルを追加を実行しており、同業者からは「ニキシュのシンバル」と呼ばれていたという[107][106]。なお、ニキシュ以降の指揮者ではウィレム・メンゲルベルク[108]やジョージ・セル[109]がこのシンバルの追加を採用している[注 31]。, 20世紀前半には、クラシック音楽の演奏会だけでなく、レコード、ラジオなどの新しいメディアを通じて、あるいはバレエや映画などでの使用によって交響曲第5番は広く受容されるようになった。, 第一次世界大戦後の1920年代にはアルバート・コーツ、ウィレム・メンゲルベルク、ランドン・ロナルド、フレデリック・ストックなどの指揮者によるレコード録音が行われている[111][注 32]。なお、この時期の日本では、1926年に ヨゼフ・ケーニヒ指揮、日本交響楽協会によって交響曲第5番が初演されている[112][注 33]。, 1930年代のバレエや映画などの作品には交響曲第5番を使ったものがある。1933年のバレエ『前兆(ロシア語版)』(Les Présages)は、バレエ・リュス出身の振付師レオニード・マシーンが交響曲第5番に振り付けた作品であり、同年4月にバレエ・リュス・ド・モンテカルロによって初演されている[113][114]。なお、マシーンは1930年代に既存の交響曲に基づく「シンフォニック・バレエ」を発表しており、『前兆』はその最初の作品である[注 34]。, 交響曲第5番第2楽章の美しい音楽は、1930年の映画『地獄の天使』(Hell's Angels)のオープニングクレジット及びインターミッション[115]、あるいは1932年の映画"Strange Interlude(英語版)" のオープニングクレジットで使われ[116]、1937年のミュージカル映画『君若き頃』(Maytime)では歌詞が付けられ、劇中歌 " Czaritsa " として歌われている[117]。なお、映画における交響曲第5番の使用例は他にもあり[118]、1937年の『オーケストラの少女』(One Hundred Men and a Girl)ではレオポルド・ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団が出演し[21]、冒頭のシーンで第4楽章を演奏している[119][注 35]。, 1939年には、マック・デイビッド(英語版)、マック・デイヴィス、アンドレ・コステラネッツが第2楽章の主旋律をもとにした歌『ムーン・ラヴ』(Moon Love)を作っている[121]。『ムーン・ラヴ』はグレン・ミラー楽団(ヴォーカルはレイ・エバリー(英語版)。)によって演奏されてアメリカにおけるヒット曲となり[122][注 36]、さらにミルドレッド・ベイリー(英語版)によっても歌われた[124]。同曲はその後もフランク・シナトラ 、エディ・デューチン、ナット・キング・コール、チェット・ベイカーなど多くのアーティストによってカバーされている[122][125]。, 第二次世界大戦中には、交響曲第5番は「勝利」のイメージがあることから連合国で好んで演奏された[126]。欧米のオーケストラなどによる交響曲第5番のプログラムノートには、次のようなエピソードが掲載されていることがある[127][128][129][130][131][132][133][134][135][注 37]。, 20世紀後半以降、今日に至るまで多くの演奏・録音が行われており[111][注 38]、少なくとも日本においては、アマチュアオーケストラの間でも人気の高いレパートリーとなっている[21][注 39]。, フルート3(第3フルートはピッコロに持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2(A管)、ファゴット2、ホルン4、トランペット2(A管)、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ、弦五部, クラリネットとファゴットの組み合わせが全体的に重要な音色となっている[142]。また、交響曲第3番と同じく打楽器はティンパニのみが使われる[143](#ニキシュの功績を参照)。この作品におけるチャイコフスキーのオーケストレーションは、楽器群の効果的な対比など、従来の作品に比べて熟達しているとされる[144]。, 交響曲第5番では、第1楽章冒頭の主題(下の譜例)が全楽章にわたって登場する。この主題は「運命」を表していると考えるのが通例であり[4][6][7][8]、「運命の主題」と呼ばれる[6][82](「主想旋律」のように呼ばれることもあるが[4]、本稿では以下「運命の主題」と呼ぶ)。主題の後半(譜例では第4小節の4拍目以降)に見られる下行する音階は、第3楽章の最初のワルツ主題や第4楽章の第1主題などにも関連する重要な動きである[11][145]。, 「運命の主題」は登場するたびにテンポやニュアンスを変える(下の表[注 40]参照)。チャイコフスキーがエクトル・ベルリオーズ[注 41]の「イデー・フィクス」(idée fixe、固定楽想)に学んだこの手法は、1885年の『マンフレッド交響曲』ですでに用いられており[149]、交響曲第5番の翌年に作曲されたバレエ音楽『眠りの森の美女』ではさらに磨きをかけた形で使われることになる[150]。, なお、「運命の主題」だけでなく、第1楽章の第1主題も、第4楽章の集結部分で姿を変えて再現される[9]。, 序奏はアンダンテ、4分の4拍子。2本のクラリネットが暗く重々しい「運命の主題」を提示する[9]。交響曲第4番の冒頭に出る激しく圧倒的なファンファーレ[152]も「運命」を象徴しているが[89]、第5番の「運命」は暗澹として弱々しく[4]絶望感に満ちており[153]、「運命への服従」を暗示している[154]。, 主部はアレグロ・コン・アニマ、8分の6拍子。弦楽器が pp で刻む行進曲調のリズムに先導され[7]、クラリネットとファゴットがホ短調の第1主題を提示する(下の譜例)。この主題は「運命の主題」から派生しており[153][7]、前述したように第4楽章の最後でも登場する。, 音楽は転調を繰り返しながら盛り上がり、第1主題が fff で確保された後、そのまま第2主題群に入る[7]。ここでは2つの重要な主題が提示される。1つはホ短調の属調にあたるロ短調による主題で、ため息のような半音の下行(ニ - 嬰ハ)を含んでいる[155]。, もう1つは叙情的なニ長調の主題であり[142]、6拍子ではあるがワルツのような性格をもっている[7][155]。, この2つの主題については、上が推移主題で下が第2主題とする見解[16][154]、上が第2主題で下が推移主題とする見解[6] [156][157]、提示部の主題が第1主題を含めて3つあるという見解[3]に分かれている。, ニ長調の主題の前後には、次の譜例のような活力のある動機が奏でられる[7]。園部(1980)はこの動機を「生命の歓喜に満ちた陽気なさえずり[155]」と表現している。なお、展開部では各所にこの動機が散りばめられる[7]。, 展開部は第1主題を中心として転調を繰り返しながら動機の展開が行われ[7]、クライマックスを形作った後は次第に静まっていき、ホ短調に戻って再現部となる[7]。, ファゴットのソロにより第1主題が再現されるが、ベースは主音のホ音ではなく属音のロ音になっている[158]。再現部は和声的な安定感が避けられており[158]、第1主題の fff での確保はホ短調ではなく嬰ヘ短調で行われ[158]、続く第2主題群も嬰ハ短調、ホ長調で再現され、コーダに入ってようやくホ短調に辿り着く[158]。, コーダの後半ではベースラインが「運命の主題」に基づく下行音形を繰り返す中[158]、第1主題が執拗に反復されてディミニュエンドしていき、最後はファゴット、チェロ、コントラバス、ティンパニが残り、 pp で暗く重い結末となる[158]。, ニ長調、 三部形式。「多少の自由さをもつアンダンテ・カンタービレ[16]」の指示がある。 デュナーミクは pppp から ffff までと全楽章の中で最も幅があり[159]、テンポの変化も全楽章の中で最も多い[159]。美しい旋律と劇的な展開をもった楽章であり、オペラを器楽に移し替えたような趣がある[142]。, 曲は8分の12拍子で開始される。弦楽器の低音による静かなコラール風の前奏[158] [14]に続き、ホルンのソロにより主旋律が提示される(下の譜例)。甘美かつ抒情的であり[18]、チャイコフスキーの旋律美が発揮された名旋律である[14]。, 次に嬰ヘ長調に転調しオーボエとホルンが副次旋律をカノン風に提示するが[14][158]、直ちに再び第1主題の登場となる。今度はチェロが旋律を担当し管楽器が対旋律を絡める[160]。間もなく、弦楽器が副次旋律を情熱的に奏でてクライマックスを築く[158]。, 中間部に入るとテンポがやや速くなって(モデラート・コン・アニマ)4分の4拍子となり、新しい嬰ヘ短調のノスタルジックな旋律[161]がクラリネットによって奏でられ(下の譜例)、ファゴットに受け継がれる[161]。, 音楽が加速して大きく盛り上がると、クライマックスで「運命の主題」が力強く回帰する[161]。休止のフェルマータを挟んで再現部となり、ピッツィカートの伴奏にのって第1ヴァイオリンが主旋律を奏でる[161]。なお、単なる再現ではなく伴奏や対旋律などが変化している[161]。やがて主旋律は感情を強めてゆき[162]、その頂点で副次旋律が弦楽器により fff で歌われ[163]、さらに ffff のクライマックスが築かれる[164]。そこから音楽は次第におさまっていくが、突然、「運命の主題」が fff で強奏される。コーダでは弦楽器が副次旋律の断片をカノン風に奏でながら静まっていき、クラリネットのソロにより楽章は pppp で静かに閉じられる[165]。, イ長調、コーダをもつ複合三部形式[145]。アレグロ・モデラート。本来であればスケルツォ楽章がおかれるところであるが、チャイコフスキーは新しい試みとしてワルツをおいた[16][142][166][注 43]。なお、多楽章形式の作品ではすでに『弦楽セレナーデ』の第2楽章にワルツをおいているが、交響曲では初めてである[14][注 44]。, 曲は前奏なしに優雅な第1のワルツ[18]から始まる(下の譜例)。旋律は「運命の主題」に関連する下行音階から始まっている[145]。この旋律が最初に第1ヴァイオリンで提示される際、伴奏は各小節の1拍目が休符になっているため[168]、聴く者の拍節感を狂わせる効果がある[169]。, オーボエとファゴットによって奏でられる第2のワルツ(下の譜例)。この旋律がクラリネットに引き継がれると、ホルンのゲシュトップフトの音色が背景を彩る[170]。この後、第1のワルツがクラリネットとファゴットに戻ってくるが[171]、ここでもゲシュトップフトの音が背景で聴かれる[170]。, ファゴットのソロによる第3のワルツ(下の譜例)。シンコペーションが特徴的である[170]。他の木管楽器を加えて繰り返される。, 中間部はテンポはそのままで嬰ヘ長調に転調する。16分音符のパッセージが特徴的であり、スケルツォ的な軽やかな音楽となっている[170]。また、途中で3拍子の中に2拍子が入るポリリズムが使われている[18][170]。, 第1のワルツが戻ってくる部分では、オーボエが奏でる旋律と、チェロとヴァイオリンが奏でる16分音符のパッセージがオーバーラップしており、スケルツォ的な中間部からワルツへの移行がスムーズに行われている[11]。この後、第2、第3のワルツも回帰してコーダとなる。, コーダの後半ではクラリネットとファゴットが3拍子に変形された「運命の主題」を pp で陰鬱に奏でるが[172]、唐突に ff の和音が現れて曲が終わる[11]。なお、第3楽章にはトロンボーンとテューバの出番がない。, 序奏とコーダをもつソナタ形式[11]、またはロンド・ソナタ形式[173]。輝かしい勝利と全民衆の祭典のようなフィナーレである[9][15]。, 序奏はホ長調、4分の4拍子。弦楽器、ついで管楽器によって「運命の主題」が荘厳に奏でられる[173]。序奏のクライマックスが静まるとホ短調の第3音であるト音がティンパニのトレモロとコントラバスに残り、そこにアレグロ・ヴィヴァーチェで主部の第1主題が飛び込んでくる[11](下の譜例)。, 第1主題はホ短調。弦楽器の下げ弓(ダウンボウ)の連続を含んでおり[174]、荒々しく[174]野性的である[11]。また、「運命の主題」に関連する下行音形が含まれている[11][175]。, 曲は猛烈な勢いを保ったまま進行し[174]、2つの推移主題をはさんで木管楽器群がニ長調の第2主題を提示する(下の譜例)。第2主題もまた、「運命の動機」に関連する下行音形を含んでいる[9]。, 第2主題が盛り上がると、金管楽器がハ長調の「運命の主題」を ff で奏する[9]。「運命の主題」に引き続き曲は展開部に突入し、第1主題がハ長調で奏される[9]。展開部では第1主題、第2主題が展開され[9]。その終わりではリズムを刻むオスティナートがなくなり[9]、弦楽器と木管楽器が掛け合いながら音楽は静まっていく[9]。pp が10小節間続いた後[176]、突如 ff となり再現部が始まる[177]。第1主題、推移主題、第2主題の順に再現されていき、結尾部で弦楽器の下行音階を背景として[9]金管楽器が「運命の主題」を ff で奏し、さらに壮大に盛り上がってホ長調の属和音で一旦終止する[9]。全休止をはさんでコーダとなる[173]。, コーダは4分の4拍子、ホ長調。「運命の主題」が凱旋行進曲のように高らかに響き渡り[9][178]、推移主題に基づく2分の2拍子の急速なプレストを経て[10]、モルト・メノ・モッソ、4分の6拍子となり、ホ長調に変化した第1楽章の第1主題をホルンとトランペットが ffff で豪快に掛け合って最強奏の和音で力強く全曲を締めくくる[173][9][10]。, なお、第4楽章は「運命との戦いとその勝利[179]」という英雄的テーマ[100]の音楽であると見なされているが[178]、その一方では、次のような批判も存在する。, 前述のとおり、チャイコフスキー自身は一時期、交響曲第5番に不満を持っており、特に第4楽章についてはシンバルの追加を望み、ハンブルク初演では自らカットした楽譜により演奏した[82]。ただし、チャイコフスキーはハンブルク初演以降に同曲を指揮することはなく[102]、ハンブルクで使った楽譜も失われてしまっているため、チャイコフスキーにとっての最終稿がどのようなものだったのかは不明である[87]。, 20世紀前半の指揮者ウィレム・メンゲルベルクが演奏する交響曲第5番の第4楽章は、カットおよび[106]コーダでのシンバル追加が行われており[87]、メンゲルベルクは、チャイコフスキーの弟モデストを通じて作曲者が望んでいた作品の姿を知っていたと主張している[87]。, メンゲルベルクが書き残したモデストとのいきさつについては時系列などに不正確な点が多いが[注 45]、交響曲第5番の校訂を行った音楽学者クリストフ・フラム(Christoph Flamm)は、メンゲルベルクが1908年5月にローマで交響曲第5番を演奏した時にモデストに会っており、この時にチャイコフスキーの意図を伝え聞いていた可能性があるとして[106]、メンゲルベルクが行った楽譜の改変はチャイコフスキーによるハンブルク最終稿(final Hamburg version)を参考にしていることにはほぼ疑いがないと結論づけている[106]。, フラムが校訂した交響曲第5番のスコアは、2018年にドイツのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版されており、第4楽章については以下のようなメンゲルベルクの改変が反映されている[106][注 46]。, 第1番ト短調『冬の日の幻想』Op.13 - 第2番ハ短調『小ロシア』Op.17 - 第3番ニ長調『ポーランド』Op.29 - 第4番ヘ短調Op.36 - バイロンの劇詩による4つの音画の交響曲『マンフレッド』Op.58 - 第5番ホ短調Op.64 - 変ホ長調(第7番、未完) - 第6番ロ短調『悲愴』Op.74, 序奏。運命の前での、あるいは同じことだが、人に計り難い神の摂理の前での完全な服従。アレグロ、I.